「引越し魔」

引越しその01(序章)

引っ越しって普通どれくらいするだろうか。
まあ、中には引っ越しが趣味だと言う人も。
(いるかそんなもん)(イラッ!)


普通は必要がなければ引っ越しなんかしない。
それに引っ越し貧乏とも言う。
引っ越せばそれだけ金が掛かる。(ショボーン)
まぁ、サラ金の取り立てから逃げるのなら別かもしれないが。


で私の話だが、
ニューヨークに移るまで私はバージニアのド舎にいた。
それがどうとち狂ったか、
アメリカの大都会に出ようとしたのだ。


日本で言うなら地方のド田舎から
東京に出ようと言うようなものだろう。
もしかすると落差はそれよりも大きいかも知れない。


海外旅行など今回が人生で初めてで
ましてまだ英語もおぼつかないとなれば尚更だろう。
(そらそやで、アンチャン)


そして夏のある日、
お世話になっていた日本人のおばさんとアメリカ人のおじさん、
そして11歳のハーフの息子に別れを告げ
住み慣れたバージニアを後に
グレーハンドの長距離バスに飛び乗った。
行き先は勿論アメリカの大都会、
ニューヨークのマンハッタンだ。


それまで私はバージニアで何をしていたか?
一応大学に通っていた。
そして日本人のおばさんの家でお世話になっていた。
このおばさんについてはいずれ話す事もあるかも知れないが
今は割愛しておこう。
(ふーん、謎のオバサンちゅう訳やな)


バスは夜の11時頃に出発して翌朝にマンハッタンに着いた。
日本で言うところの深夜バスのようなものだ。
(確か大阪から東京に行くときに何度か使った事がある)
遂に着いたのだ、憧れのマンハッタンに。


場所は8番街と42番地の南西の角にある Port Authority と呼ばれる
郊外からのバスや長距離バスの止まる停留所だ。
しかもこの辺りは治安が悪いと聞いた。
当時は本当に悪かった。
(怖いがなアンチャン、ブルブル)


しかし都会でデザインを学びたいと言う私の夢が
その恐怖を乗り越えたのだ。
(大したもんやでアンチャン)


ともかく誰にも目を合わせないようにしてタクシーを探した。
ジャンキーに絡まれても困るので。
無事タクシーをつかまえて向かった先は
イーストサイドの14丁目付近にある大きなアパート地帯だ。


そこはバージニアでお世話になったおばさんの紹介だった。
(ええオバサンやな)


その当時ニューヨークで超有名だった日本レストラン「斎藤」
と言う所でシュエフをやっていた人のアパートがそこにあった。
マンハッタンに一軒家はない。みんなアパートかマンション住まいだ。
(そらそやろ、物価高いしな)


その日はそのシェフの家で一泊させてもらった。
翌日シェフの奥さんがクイーンズ地区に
アパートを手配しておいたと言って連れて行ってくれた。


クイーンズ地区と言うのはマンハッタン島の東側を流れる
イーストリバーを超えた向こう側にある地域だ。
そこへは地下鉄で行った。


特にマンハッタンには郊外に住む人達も通勤や
それ以外でも車で来る人はまずいない。
殆どがバスか地下鉄になる。


車で来ても停める所がないと言うのが実情だ。
しかも交通状態は常に悪い。東京よりも。


私が住んでいたバージニアの様に
アメリカの地方に住む者に取って車はなくてはならない足だ。
車がなければ生活が成り立たないと言う所もあるだろう。
しかしここは違う。


唯一車なしで生活出来る町と言ってもいいだろう。
サンフランシスコもその例外の一つには入るだろう。


そのクイーンズ地区にあるアパートに向かった。
本当に小さなアパートだった。
日本で言えば3畳一間程か。
それより狭いかも知れない。


ともかくベッドが一つあるだけの部屋だ。
しかもトイレもバスも共同だった。
正に寝るだけの部屋。そんな感じの部屋だった。
(タコ部屋かい)


いやいや、ニューヨークにもそう言うアパートがあるんだよ。
まぁ、こっちは西も東もわからない
ド田舎から出てきたばかりの日本人だから
寝る所があるだけでも幸せと言うものだろう。
贅沢は言えない。
(そらそやな)


そこからマンハッタンにあるデザイン学校に通う生活がこの日から始まった。 

これが私に取ってニューヨークへの最初の引越しだった。


続く

引越しその02(ソーホー)

アメリカの新学期は9月から始まる。
だから私がニューヨークに着いた時点では
デザイン・スクールはまだ始まっていなかった。


それでも一応入学手続きはしておかないといけないので
早速マンハッタンへと向かった。


クイーンズからは
フラッシング7と言う地下鉄に乗ってマンハッタンに入り
タイムズスクエアで
1・2・3番のブロードウエーラインに乗り換える。


そこで72丁目で降りると
私が通う事になっていた学校へは歩いて行ける。
学校の入ってる建物は古いゴシック調の建物だった。
そしてその中の一角にそのデザイン・スクールはあった。


まずは事務所で入学手続きを終えて
ついでだからマンハッタンを見て回る事にした。
タイムズスクエアに5番街。
正に世界の大都会の名に相応しい所だ。


その上何と行き交う人の多い事か。
一瞬日本の都会を思い出してしまった。
バージニアの田舎から比べれば
カルチャーショックも良い所だ。


とは言ってもそれはあくまでバージニアと比べての話であって
それで私がぶったまげた訳ではなかった。
何故なら私はバージニアに移る前は
サンフランシスコに住んでいたからだ。


サンフランシスコもまた大都会だ。
ニューヨークのマンハッタン程ではないにしても
交通量も行き交う人も多い。


しかしアメリカと言う事で言えば、
バージニアの様な各地の地方こそ
本当のアメリカと言う感じではないだろうか。


ニューヨークやサンフランシスコこそ例外だろう。
(なんせ広い土地やからな)


入学手続きの終わった私は一旦クイーンズのアパートに戻り、
週末はこのアパートを世話してくれたシェフの所に
お礼の挨拶に出かけようと思っていた。


週末の日曜日に再びシェフの家を訪ね、
お礼を兼ねて色々話をさせていただいていた。
その時に当然バージニアのおばさんの話も出た。


おばさんがバージニアに移る前はこのシェフのいた
レストラン斎藤でウエイトレスをやっていた。
その話はおばさんからも聞いた事があった。


まぁともあれ、その話の流れから
『ヒロちゃん、良ければこれからちょと付き合わないかい。
実は君に紹介した人がいるんだよ』
何の事かよくわからなかったが、
この人が紹介したい人と言うのだから
きっと悪い人ではないだろうと思いついて行く事にした。


着いた先はソーホーと呼ばれる所だった。
今でこそソーホーはおしゃれな若者の街
として知られているかも知れないが
当時はただの古ぼけた倉庫街だった。


しかもロフトと呼ばれる天井が吹き抜けの建物が多かった。
だからアーテスト達が芸術作品を創るのに丁度良いと言う事で
多くのアーテスト達がそこに住み着いた。
しかも当時は家賃も安かった。


いくらアーテイストと言っても
本当に芸術で食って行ける人間はほんの一握りだ。
だからみんな生活の為に副業を持っていた。
その為家賃の安い所でないと住めかなった。


そう言う意味ではここは
アーテイスト達に取って都合の良い所だったんだろう。
そんな中の一つのロフトに辿り着いた。


そこでシェフに紹介されたのは
50前後の小柄な日本人だった。
何でも日本で大工をやっていて
こちらでも日本レストランの
日本間等を手掛ける仕事しているとか。


そう言う関係でシェフとは顔なじみだった。
見るからに職人さんと言う感じの人だった。
ここでこの親方は5人の従業員を使っていた。


3人は日本人の男性、一人はアメリカ人の男性、
そしてもう一人はアメリカ人の女性だった。


色々と親方の話を聞いている内に、
『どうだいあんちゃん、良かったらここで住まねーか、
二階の物置にはスペースが幾らでも空いてるんだ、
おめえさんの部屋位簡単につ作ってやるさ』
と言う話になっていた。


何故そうなったのか良くわからないが
悪い話ではなかった。
しかも部屋代はいらないと言う。


ただほど高い物はないと言うが
条件としては学校が終ってから
ちょっとした内職の仕事を手伝って欲しいとの事だった。


それは障子の桟作りだと言う。
まぁそれなら教えてもらえば
出来ない事はないだろう。


それよりも嬉しいのは作業場には
トイレとシャワーがある。
仕事が終わって皆が帰った後は誰も使わない。
後は私専用のバスとトイレになると言う事だ。


これならクイーンズのタコ部屋よりは余程良い。
その一点で私はOKをしてしまった。


これが私の2回目の引越しになった。


続く。

「引越しその03」-(大工仕事)

大工の親方の所に引越しが決まって
3人の日本人の内の一人が店のトラックで
私と荷物をマンハッタンまで運んでくれた。


彼は東京で親子三代続いた大工の倅だと言っていた。
年も近いので結構早く親しくなり
お互いにため口をきいていた。

その彼が二階の木材置き場の角をベニヤで囲んで
私の部屋を作ってくれた。
実にシンプルな角部屋だ。ただし窓はない。


その部屋に折り畳み式のシングルベッドを
一つ入れただけの部屋だが
周りに遠慮するものは何もない。


ただしだ
翌朝起きたらベット中が粉くずで覆われていた。
「なんじゃこれは」


電気ノコや電気サンダーで削った木材の粉が
私の部屋に侵入して降りかかって来ていたのだ。
(野郎め、手抜き工事しやがって)


「何だよあれは。それでもプロかよ」
「うるせーんだよ。そんな事で人間死なねーよ」
「死ぬわい。鼻、口詰まってみろ」
「詰まんねーよ。まぁいい、直してやらー」


ぶつぶつ言いながらも
一応はプロとしての自覚はあったのだろう。
ちゃんと目張りをして直してくれた。
そこはやはりプロと言うべきだろう。


ただ寝泊りはただだがこれと言った収入はない。
学校が終わってから手伝ってる障子の桟作りにしても
それで小遣いがもらえる訳ではない。
まぁ言ってみれば宿賃代わりと言うようなものだ。


かと言ってこれではいずれジリ貧になる。
私は日本からいくらでも送金して貰える
と言う様な状態で来たのではない。


そんな時だったか、
またシェフがここを訪ねてくれて、
「どうヒロちゃん。バイトやってみないかい」と言う。
これは私に取って渡りに船だった。
(よかったなアンチャン)


「バイトですか。ええ何でもやりますよ。
どんなバイトです?」
と聞いたら自分の店のキッチンの
天井のペンキ塗りだと言う。


実はこの時、このシェフは
もうレストラン斉藤を辞めて
自分のレストランを
マンハッタンのダウンタウンに開いていた。


そのキッチンの天井のペンキ塗りらしい。
そこのキッチンは地下にあった。
しかも営業時間中は出来ないので
店が休みの日曜日にと言う事になる。
こっちもその方が都合がいい。


「いいですよ、やらせてください」
と言う事で話が決まった。
ただ一回ではすまなかったので
2週間位はかかったと思う。


その最後の時だったがシェフが来て、
「良く出来たね。ありがとう、ヒロちゃん。
どう、何か食べたいものある。
店にあるものなら何でも食べさせてあげるよ」


と言うから、何にしようかと考えあぐねていたら
シェフが「うちで一番大きいステーキ食べてみるかい。
12オンスでどうかな」と言った。
ステーキ・・・12オンスのステーキ。
(そんなもの食べた事がない。!!!)


確か1度か2度、日本でお袋が
「今日は大奮発してステーキよ!」
と言って買って来た事はあるが、
それは結構薄い物だった。
それでも「これがステーキか」
と言って喜んで食べていたのを思い出す。


なのに「何だこの大きさは。
本当にこれがステーキなのか。
こんなものがあるのか」
正直そのステーキを眺めていたら涙が出てきた。
こんなの本当に食べられるんだと。


特に私の家庭がひもじかった訳ではない。
その当時の一般庶民は
何所ともそんなものだった思う。


しかもそれは照り焼き風味付けで本当に美味しかった。
それが私が始めてステーキと言う物を食べた瞬間だった。
勿論それとは別にちゃんとバイト代も払ってくれた。
この時は本当に嬉しかった。


大工の親方の所では時々現場にも連れ出され
手伝いをさせられるようになった。
勿論学業に差しさわりのない時間でだが。


日本食のレストランの日本間の改築が殆どだった。
ただ時には新築で日本レストランの施工もやった。
そう言う時は幾ばくかのバイト料をくれたが
大した額ではなかった。


それでも私に取っては大いに助かった。
そんな時の翌日は直ぐ近くにある中華料理店に行って
ご飯の上にポークのオイスターソースを絡めた
卵とじ風ものを食べた。
これがまた量があって実に美味い。
その上めちゃ安い。


確か当時の金で2ドル30セント位だったか。
それでも毎日食べられるものではなかった。
私の居た所はチャイナタウンにも近いが、
イタリア街にも近かった。


基本的にはCanal Streetから
南側が俗にチャイナタウンと呼ばれる。
しかしその通りの北側にも結構中華料理店はある。
特にそう言う所は現地の中国人達しか行かないので
安くて美味いものが多い。


そんな値段でも私にはまだまだ高値の花だった。
だから余分な金の入った時しか食べられなかった。
(貧乏生活してたんやな(:><:)


その内大将が、
「あんちゃんデザインやってるんだろう。
どうだい図面は引けるかい」
と言い出した。


「どんな図面ですか」と聞くと
「お客さんに見せる仕上がり予想図だ」
建築関係で言う透視図の事だろう。
一点透視とか二点透視と言うのがある。


私の専門はグラフィック・デザインだったが
機械設計の経験があったので何とかなるだろうと思った。


「そんなに込み入ったものでなければ何とか」
「そうかい、じゃー悪いがひとつ描いてみちゃくれねぇか」
と言う事で今度は図面引きをやらされる事になった。


ところがこれがやり始めてみると
結構手間がかかった。
夜中までやっていると言う事がよくあった。
それに道具も殆ど揃ってなかった。
デザイン・デスクもT定規もない。
それこそ三角定規2個と物差し、
コンパスと雲形定規位のものだ。


そんなものでまともな図面など引ける訳がない。
しかし引き受けた以上は何とかしなければならないだろう。
だからいつも夜なべ仕事になっていた。
(おいおい、それってブラック企業と違うんかい)


強制された訳ではないが、
部屋代をただにしてもらっている関係上
嫌とも言いずらかった。


それと荷物運びで
トラックの運転をさせられる事もよくあったし、
泊まり込みで
ちょっと遠くの現場での仕事と言うのもあった。


さすがにこの辺りまでくると
私もちょっとしんどいかなと思うようになってきた。
バイトでも学ぶ事は多くあるだろう。
しかしそれで本業が疎かになっては元も子もない。


私は何もここに大工の手伝いをしに来た訳ではない。
あくまでデザインの勉強をしに来たのだ。
それでここもそろそろ見切り時かなと思った。
(やっぱりただより高い物はないちゅうこっちゃな)


ならどうするか?
何処へ行けばいい?


次の選択がとんでもない事になった。


続く

「引越しその04」-(ビレッジ)

確かに大工の棟梁の所の部屋代はただだ。
しかしあれは普通、人の住む部屋だろうか。


3畳間よりも狭い空間に裸電球が一つ。
窓もない家具もない。
折り畳み式のシングルベッドが一つと
床に置かれた私のスーツケースが一つ。
内装など勿論ない。むき出しのべニア板があるだけだ。


ドアはあるが鍵など望むべくもない。
まぁこんな所に入る泥棒もいないとは思うが。
始めは良い条件だと思ったが
これではタコ部屋の方がまだましかも知れない。


ここは強いて言うなら籠の鳥部屋とでも呼べばいいか。
これが私の塒だった。
もう少しましな人並みの部屋に住みたい
と願うのは高望みだろうか。


どう考えても我慢が出来なかった。
それでアメリカ人の従業員のアンディに相談してみた
部屋を探すにはどうしたらいいかと。
彼曰く「新聞広告を探してみるか
もしくは自分で広告を出してみれば」との事だった。


なるほどそれは良い。
それで一つのタウン誌に広告を載せてみた。
「当方学生、ルームシェアを求む」
こんな感じで広告を出した。


ルームシェアでなければ私の持ち金では
部屋代を払っては行けない。
だからこれは仕方のない妥協だろう。


待つ事しばし、第一件目の電話が鳴った。
場所はブロードウエーの70丁目だと言う。
悪くない所だ。それに私の学校にも近い。
そこからなら歩いて通える。
それで早速会いに行った。


小奇麗な部屋だった。相手はアメリカ人の白人で
高校の数学の先生をやっていると言っていた。
始めは正面を向いて話をしていたのだが
どうも雰囲気が・・・。


何故かサンフランシスコでの一コマを思い出してしまった。
(なんやねん、サンフランシスコって)
(うるさい、トラウマに触れるな)
(ただし貞操はちゃんと守ったぞ)


その内私の座っていたカウチの横に座りだした
『やっぱりこれかよ。もういいわ』
「色々検討させていただきたく。今日はこれで」
と言って直ぐに退散した。
初っ端からホモさんでは困るんだよな。


二人目は13丁目の5番街だと言っていた。
しかもペントハウスらしい。
流石にそれは高いだろう。
ダメもとでともかく行ってみた。


相手はドクターだと言った。
彼もアメリカ人(?)の白人だった。
しかも私の部屋になる所には
ポータブルのテレビも入っていた。


「あのー悪いですが私は月に120ドル位しか払えませんよ」
と言ったら向こうはそれでもいいと言った。
これは凄く良い条件だ。


「それじゃー乾杯でもしよう」と言う事で
相手がビールを出して来てくれた。
話してると「東洋人と言うのは肌の木目が細かくていいね」
と言っていた。

医学関係の話かなと思っていたら
この人もまた私の横に座って来て私の肩に手を掛けようとする。
「またかよ」と言う感じで丁寧にご辞退申し上げた。
(なんやねん、こいつらいったい)


三人目の電話はこれも男性でモデルをやっていると言っていた。
私がデザイン学生だと言ったら、
「それなら君の為にモデルになってあげてもいいよ」
と言い出した。しかもヌードモデルもOKと来た。
こちらは会わずにお断り申し上げた。


正直ちょっと電話を取る気がしなくなっていたが
それでは埒があかないので仕方なく4件目の電話に出た。
今度の彼はウエスト・ビレッジに住んでいるらしく
ルームメートがスペインに帰ったので代わりを探していたとか。


これも正直どうかわからないが
もしまたそうなら引き上げてくればいい。
そう言う気持ちで出かけて行った。


場所は 7th Ave から Christopher St を西に入った所。
正にウエスト・ビレッジの中心とも言える様な場所だった。

建物は古く5階建て位だっただろうか。
彼の部屋はその2階にあった。


エレベーターはなかったが2階なら問題はないだろう。
そこで出て来たのは髭もじゃのポテッとした白人だった。
フロリダから出てきて今はタクシーの運転手をしているらしい。


正直こんなのに襲われたら堪らんなと思ったので
先に「あんたはホモじゃないだろうな」と聞いておいた。
すると「俺はホモじゃない。大丈夫だ」と言うので
このアパートで手を打つ事にした。


このアパートは2ベッドルームで月に240ドルだった。
それを二人で頭割りにして一人120ドルだ。
ぎりぎりだがこれなら何とかやっていけるだろう。
この辺りは今の相場で言えば20倍はするだろう。


これで私も憧れのビレッジの住人になれた訳だ。
まぁここはホモやレズで有名は場所ではあるが
それでもビレッジはビレッジだ。
グリニッチ・ビレッジはヒッピー発祥の地でもある。


清水の舞台から飛び降りた気持ちで
中古のちょっと大きめの木製のデスクを探して買った。
それを三代目がトラックで運び入れてくれた。
これでやっとまともに勉強が出来る。


それ以上の余裕はなかったのでベッドはない。
床にマットを直に敷いて寝ていた。
それでも晴れて自分のまともな部屋だ。
ほんとうに嬉しかった。


ちなみに後でアンディに今回のゴタゴタの話をしたら
「どんなタウン誌に宣伝を載せたんだ」と言うから
「ビレッジ・ボイス」だと言ったら
そりゃあんた、ゲイの新聞だよと言われてしまった。


色々あったがこれが私の3回目の引越しになった。


続く

「引越しその05」-(イミグレーション)

ビレッジに移った翌日
引越し祝いにとルームメイトが
近くのバーに連れて行ってくれた。


そこで二人でビールを飲んでいると後ろの席が騒がしい。
何を言っているのかよくわからなかったので
ルームメイトに聞いてみると
片方が浮気をしたとかで揉めているとか。
しかしあれって男同士だろう。


そうか、私はこう言う世界に来たのかと改めて理解した。
傍から見れば我々もまた
そう言う関係だと思わるのだろうなと思うと
何故か寒気がした。


新しいアパートに移ったのは良いが、
金銭的にはやはり出て行くばかりで苦しくなってきた。
いくら生活を切り詰めても限界と言うものはある。


親の意向にそぐわぬ形で海外に飛び出した私だ。
日本からの送金は期待出来ないし、
またするつもりもない。
さてどうしたものか?


こうなったらやっぱりバイトをするしかないだろう。
バイトで一番簡単なのはやっぱりウエイターだろう。
学業に差し障らないように夜だけバイトをすればいい。
ウエイターなら日本で散々やったので自信はある。


ただ問題があるとすればイミグレーションだ。
一応留学生の定期就労は違法だ。
イミグレーションに見つかれば強制送還もありえる。


それでは困るんだよな。デザインの勉強が出来なくなる。
いや待てよ、
学生には確か学生の労働許可書と言うのがあったはずだ。
そこで早速学校の事務局に行って事務長に訪ねてみた。


「学生の労働許可書をもらいたんだけど」と。
すると事務長は
「それは無理だろうな。うちの学生も随分し申請してるが
未だに誰一人として許可された者はいない」そうだ。


『それは困った。どうすればいい。
しかしバイト以外に手はないよな』
色々思いあぐねた末に私は一つの可能性を見出した。
だめで元々、そこで私はその手を使ってみた。


私が何をしたかは詳しくは言えないが
結果として私は学生の労働許可書を得る事が出来た。
別に違法な事をした訳ではない。
若干チートな方法を使ったが合法な手段だ。


ただし誰にでも出来ると言うような事でもない。
その結果を事務長に報告したら目を丸くして驚いていた。
「どんなマジックを使ったんだ」と。


これもバージニアと言う田舎で
おばさんの所にいたおかげだろうと感謝した。


これで堂々とバイトが出来る。
私はマンハッタンでも老舗と言われる
日本食のレストランの面接を受けに行った。


その店はミッドタウンのイーストサイドにあった。
幸い面接ではすんなりと採用が決定されて
バスボーイとして働く事になった。


こう言う所では最初からウエイターにはなれない。
まずはバスボーイ(ウエイトレスの雑用係)から始め
キャリアに応じて上に上がって行く。
基本給などあってないようなものだ。


みんなチップで生計を立てている。
ただそのチップが馬鹿にならない額になる。
私の様な新米のバスボーはチップが60%からだった。
長く働くほどその比率が上がり
最後には100%のウエイターになれると言う訳だ。


その期間はどの位なのか?
それは状況次第と言う事になる。
ともかくそう言う状況で、私は遅番と呼ばれる
夕方の6時からのシフトに入った。


5時半に店に入ると夕食が出る。
これは大きい。メインの一食が助かるのだから。


店は10時までだがその後も後片付けや
その日のチップの計算と振り分け等があって
終わるのは大体11時頃になる。
それから家に帰ると事になる。


そんな生活が続いたある暑い夏の日の事だった。
5時の開店と同時に数人の男達が店に雪崩れ込んできた。
イミグレーションだと言う。


「誰もその場を動かず
身分証明書を提示しなさい」と言っていた。
『これはまずい』
私は学生の労働許可書を身に着けていなかった。


もしかしたらジャケットのポケットに入ってるかと思い
地下の従業員用のロッカーにはジャケットが入ってるので
それをチェックしようと地下に降りた。


するとそこにも既にイミグレーションの係官がいた。
どうやら私が逃亡しようとしてると勘違いしたようだ。


「いや、ジャケットに・・・」と言う暇もなく
私は路上に駐車してあるイミグレーションの車の屋根に
両手を乗せさせられて身体検査をされたあげく
手錠まで掛けられて車の中に放り込まれてしまった。
これは完全に逃亡犯扱いだな。
(おいおい、犯罪者かいな)


私も手錠を掛けられたのは
人生でこの時が初めてだった。
後はそのままダウンタウンにある
イミグレーションのビルに連れていかれた。

そこは結構広い部屋だった。
手前にはテーブルを挟んで担当官達が検挙者達に詰問をしていた。
更にその奥の部屋には何と50人近い日本人が確保されていた。
それを見てびっくりしている私に担当官は
「すごいだろう。今日は日本人狩りだよ」と言っていた。


そんな事よりも
「私はワーキング・パミッションを持ってるから
是非調べてほしい」と担当官に言った。
すると「一応調べてみるから待ってろ」
と言って私のID等を確認して部屋から出て行った。


後は何もする事がないので
その部屋でブラブラしてると
一人の担当官が
「お前、英語がわかるだろう?」と言うから
「はい」と答えたら「こっちに来て通訳してくれ」
と言われてしまった。


それから随分長い間、あっちこっちと引き回されて
捕まった日本人達の通訳をしていた。


多くの日本人達はキッチンの中で働く
キッチン・ヘルパーみたいだった。
それなら表に出ないから
見つかる事も少ないと言う事なのだろうが
今回はだめだったようだ。


中には観光ビザの者(期限切れも含めて)
学生ビザの者、学生を落第して違法滞在している者。
実に様々だった。


そんな時一人のおばさんが私の所に駆け寄って来て
「助けてください。
私は何もしてないのに逮捕しようとするんです」と言う。
何で私に?


この時の私の服装は黒のパンツに白のカッターシャツ、
それにネクタイをしてジャケットも着ていた。
だから多分弁護士か何かと間違えたんではないだろうか。


何だか良くわからないが私が担当官に
「こんな事言ってますが」
と言うと担当官は苦笑いをしなが
「彼女は常習犯なんだ。気にするな」と言われてしまった。


かれこれ40分近くそんな事をしていただろうか。
やっとさっきの担当官がかえって来て開口一番
「君は刑務所行きだ」と言われた。
「何で、何で」と言うと
「冗談だよ。帰っていいぞ」と言われてしまった。


それって相当心臓に悪い冗談だよね。
それならと「こんな遠くまで連れて来られて
夜も遅いので車で送ってもらえるんですか?」と聞いたら、
「冗談も休み休み言え。これだけいるんだぞ。
こっちは徹夜なんだ。適当に勝手に帰ってくれ」
と言われてしまった。


正直マンハッタンのこの辺りの夜は
ゴーストタウンになるちゅうねん。
タクシーなんか拾えるか。


人っ子一人いない通りに出て
いつ来るかもわからないタクシーを待っていた。
すると幸いにして一台のタクシーが目に入った。
必死に手を振ってようやく乗車する事が出来た。


店に帰ってみるとマネージャーに
社長が呼んでるから
事務所の方に行くようにと言われた。


向かいのビルにあるこの店の事務所に出向いてみると
社長が待っていた。
うちの店からは私ともう一人、
フロント係として働いていた学生が捕まっていた。
勿論彼はまだ釈放はされていない。


社長に今までの状況を話したら
何か差し入れでもしてやろうかと社長が言ったが
それは無理でしょうと言っておいた。


社長はそうかと納得したが、
今回の事はもし地元の日系新聞社が取材に来ても
何も言わないようにと釘を刺された。
きっと店の信用問題と言うのがあるのだろう。


今でこそ不法労働者を雇うと
雇い主にも罰金や刑罰が下るが
当時はそんなものはなかったので
全ては働く者の自己責任だった。


結果として、私一人を除いて
後は全員が強制送還されたようだった
チーフウエイトレスに言わせると
こんな事は滅多にないと言う。
前にあったのは6-7年前だったとか。


今回の事はマンが悪かったが
私自身に関してはラッキーだったと言う事か。
ほんと労働許可書を取っていて良かったよ。


それと滅多に出来ない経験が出来た。


続く

「引越しその06」-(サブリース)

バイトが出来るようになってから私の生活も随分と楽になった。
バイトのチップで部屋代を払い、
授業料を払ってもまだ生活が出来る。
ソーホー時代から比べると夢の様だ。


勿論学業を疎かにしている訳ではない。
学校にはちゃんと行っている。
ただし最近これでいいのかと思う事がある。
正直習う事がないのだ。


私はこの時グラフィック・デザインのコースを取っていたが
日本でもデザイン学校でグラフィックを取っていた。
私は結構優秀な生徒だった。


だから技術的には正直な話ここで習う事は何もなかった。
強いて言えばデザインに対するコンセプトや
考え方位だろうか。


それが証拠に最近は先生に
生徒に配る課題のサンプル画を描かされていた。
これって生徒のする仕事じゃないだろう。
そんな事もあって若干フラストレーションが溜まっていた。


私のアパート生活も始めのうちは順調に行っていた。
しかし何時頃からだろうか
少しずつルームメイトの嫌な所が目に付くようになってきた。


性格的な事ならそれほど気にはならない。
何故なら殆ど顔を合わす事がないのだから。
ただ仕事が終わって疲れて帰ってくると、
何故かキッチンの流し台が汚れた食器で一杯になってる。
私はどうもそう言うのが我慢出来ない性質だ。


これは私の生まれながらの性格ではないと思う。
多分後天的なものだろう。
つまり日本でもこちらでも皿洗いは基本中の基本、
いつもバイトでやらされて来た。


だから汚れた食器が流し台に山積みなど我慢ならないのだ。
それで私が片付ける。すると翌日また山積みになってる。
それでとうとう我慢出来なくなって
ルームメイトに片付けてくれと言った。


すると2・3日は良かったがその後直ぐまた元通りだ。
これには正直頭に来た。
確かに私はここのキッチンで料理をする事はない
しかし一応は共同生活してる訳だから
共同の場所はきれいにするべきだろう
まして自分で使ったのなら。


勿論その時山積みでも翌日に片付いているのならいい。
しかし放って置くといつまでもそのままだ。
これではいくら何でも文句の一つも言いたくなるだろう。
こちらでも少しずつフラストレーションが溜まってきた。


ビレッジは良い街だ。着飾った所がなくて自由でいい。
それでいて泥臭さもない。
私はこのビレッジが気に入っていた。


近くには確か「栄(?)」とか言ったか。
良心的な値段で
美味い飯を食わせてくれる日本の店もあった。


ソーホー時代では食えなかった外食も今では出来る。
だから正直ここを離れたくはなかったのだが、
これでは精神衛生上良くはないだろう。
それで私もとうとうここを出て行く決心をした。


そう言う意味ではここも長くはなかった。
約3カ月位だろう。
さて今度は何処に行くかだ。


もう自分で新聞広告を出すのは懲りたので
逆にアパート関係の広告欄を見回していた。
すると一件面白い広告があった。
それは「アパートのサブリース」だった。


「サブリース」と言うのは
アパートの借主が第三者に自分の部屋を貸し出す事を言う。
短期の時もあれば長期の時もあるだろう。
ただしそれは借主の持っている
リースの期限内に限られるが。


それとどうやらこの宿主は日本人の様だった。
ワンベッドのアパートで期間は3カ月と書いてあった。
場所はミッドタウンのウエストサイド。


悪くはないが問題があるとすれば家賃だ。
月340ドルと書いてあった。
これはかなり高い。今私が払っている3倍近くある。


『これって私に払えるのか?』
正直な所カツカツと言った所か。
長いと問題だが3カ月だけなら何とかなりそうだ。
それが済めばまた安い所に引っ越せばいい。
そう思うと出来そうな気もして来た。


金銭的に少し余裕が出て来たので冒険心も湧いてきた。
人間とは現金なもので
ソーホー時代では考えもしなかっただろう。
ともかく一度会って話を聞いてみようと思った。


アポを取って出かけてみると
そこは8番街と45丁目の角だった。
アパートそのものは悪くなかった。


綺麗だし入り口には
セキュリティー・デスクが付いていて、
訪問者をチェックしている。
こんな所は初めてだった。


部屋はワンベッドルームだ。
入り口から入ると右手がキッチン、
正面はダイニングとリビングスペース。
左側は壁を挟んで
リビングと同じ広さのベットルームになっていた。


家具は全て揃っているので持ち込む物は何もない。
旦那さんは国連に勤めているか、これから勤めるのか
ともかく3カ月日本に帰ってまた帰って来ると言っていた。


奥さんは凄く活発な人で東京の三鷹の出身だと言っていた。
向こうも私を気に入ってくれたようで
話がトントン拍子に進んで
この部屋を借り受ける事になった。


今度こそサブリースと言えども自分一人の部屋だ。
まだ完全に自分だけの部屋とは言えないが
少しづつ前進してる事は確かだろう。


少なくとも目の前はブロードウェイのミュジカル地区だ。
これはまた別の意味で華やかでいい。
こうして私はビレッジを離れた。


机は必要なかったので置いてきた。
これが私の4回目の引越しとなった。


ただこの時私はまだここがどう言う所なのか
まったく知らなかった。


続く

「引越しその07」-(ヘルズキッチン)

ブロードウェイ・ミュジカルの本場と言えば
大雑把に言って南北は43丁目から53丁目当たり、
東西はブロードウェイから8番街と言った所だろう。


勿論そこから外れた所にもミュジカル・シアターはあるが
メインと言えばやはりその辺りになる。
そう言う意味では私の新しい住まいは
正にブロードウェイ・ミュジカルの
真っただ中と言う事になる。


ただしここが微妙な所で
ミッドタウンの8番街から西
9番街10番街それ以降と言うのは俗に
「ヘルズキッチン(Hell’s Kitchen)」と呼ばれる所になる。

「なんじゃそれは?」
元々9番街は多国籍のレストランが多く
その地区に流入したギャングとの兼ね合いで
ヘルズキッチン(地獄のカマド)
と言う名がついたと言われている。


かってはマンハッタンで最も危険な場所と言われていた。
ただ今では治安も回復し再開発の場所として
脚光を浴びてるが私がいた当時はまだ危険な所だった。


ミュジカルで
ウエストサイド・ストーリーをご存じの人であれば
その舞台となっていた所だと言えば理解出来るだろうか。
その時の私は住んでみるまでそれを知らなかった。


私がいた当時、
42丁目のブロードウェイから8番街と言えば
アダルト・グッズと成人映画にストリップ
そして麻薬の巣の様な所だった。


だからまともな人は歩きたがらなかった。
そこから右に折れて8番街もまた似たようなものだ。
特にストリップ劇場とそして夜になると
ストリートガールと呼ばれる娼婦達が立ち並ぶ通りだった。


移った当時はそんな事は知らなかったが
人から色々教えてもらい現実を見て理解した。
実際にバイトから帰って来ると
確かに娼婦達が立ち並んでいた。


私はレストランが終わると地下鉄で帰って来るのだが
当然家に着くのは12時近くになる。
そうなると私の帰り道には彼女達が立っていた。


最初の頃はよく「Hi Boy」
と声を掛けられる事も多かったが
それが毎日となるとこの辺りの住人とわかり
「How are you, Boy」に変わっていった。
この8番街は正に表と裏の境界線、その入り口だった。


そうそう地下鉄で思い出したが、
夜遅くなると地下鉄の乗客は
自然と連結車両の中央に集まってくる。


日本の電車は後ろだが、
NYの地下鉄は中央に車掌が乗車している。
だから中央にいた方が安全だと言う
生活の知恵みたいなものだろう。
勿論私もそうしていた。余計な厄介事は避けたいので。


今は元ニューヨーク市長のジュリアーニ氏の手によって
この42丁目も8番街も随分住みやすい所になった。


ただ当時の悪い環境の中でも
8番街から9番街にかけての46丁目だけは別だった。
ここはシアターレストラン街と呼ばれ
ミュジカルを見る前や終わってから
食事に立ち寄る人達で賑わっていた普通の通りだった。


マンハッタンとは面白い街で
一筋違うだけで様相が一変する。
当時は私も8番街から西側の通りに行く事はなかった。


8番街ですら夜は冷や冷やものだったが、
慣れと言うものは恐ろしいもので
このヘルズキッチンでの生活にも
いつしか馴染んで行った。


ただ日増しに期限の3カ月は近づいてきた。


続く

「引越しその08」-(リンカン・センター)

新しいアパート生活の方は言う事はない。
テレビもあれば炊飯器もある。
その気になれば日本食も作れるが
夕食はいつもレストランで食べるのでその必要はなかった。


それに何時帰ってきても
もうキッチンに食器が山積みと言う事はない。
至極快適な生活だ。
そうなって来ると逆に何か
物足りなさを感じてしまうのが人間の性だろうか。


ある日キッチンの引き出しに
置き忘れられていたタバコを見つけた。
もう殆どないが何本か残っていた。
ここの旦那さんはタバコは吸わなかったと思う。
するとこれは奥さんのタバコか。
それはメンソール系のタバコ・イヴ(Eve)だった。

きれいなパッケージだ。
それを見ているうちに吸って見ようかなと言う気分に囚われて
とうとう誘惑に負けてしまった。
(サタンの誘惑に負けたんやろう)
(かも知れんな)


正直私はタバコは吸える。
特に日本でデザイン・スクール時代は
ジャズ喫茶に入ってスケッチブックを出して
さもデザイナーですみたいな格好でタバコを吸うのが
カッコ良いと思い込んでよく吸っていた。


ただ留学すると決心した時からタバコは止めた。
だから数年振りになる。
吸った途端頭がクラクラした。


まぁ当然だろう。ただメンソールは私の好みではなかった。
(大丈夫かそんなもん吸うて、あれになったりせえへか。
(なれへんわ)


しかし一旦吸ってしまうと
堰を切って水が流れ出す様に
無性にタバコが欲しくなってしまった。
それで下のグロッサーリーでタバコを買った。


勿論IDを見せろと言われた。
特に東洋人は若く見られるので
私の事もティンネィジャーだと思ったようだ。
(こっちだけやろう、そんな若こう見られるんわ)
(ちゃうわい、童顔なんじゃい)


こちらでは喫煙は21歳からになる。
そして選んだタバコはラーク(Lark)だった。
正直これも少々きついタバコだ。
その時からまた私の喫煙が始まってしまった。


ただ酒は控えていた。これはまだ禁酒中だ。
(どうや、もう一個リンゴ食べてみるか)
(いるかそんなもん、一個で十分や)


しかし3ヶ月経つのは早い。
もう来月にはここの夫婦が帰って来るので
それまでには出て行かなければならない。


さて次は何所に行けばいいのか。
それでまた新聞を見てると
ブロードウエーの上の方に良さそうな物件があった。


それまでに何件か見て回ったか?
いや、それはしてない。
値段が合わなかったので始めから諦めていた。


しかしここはそれほど高くはない。
何とかなりそうな値段だった。
月250㌦となっていた。
ただしスタジオ・アパートだ。


つまり一間っきりの部屋と言う事になる。
バス・トイレは付いてる。
(これいけるんとちゃうか)


それで一度見てみようと出かけた。
そこはブロードウエーの64丁目、
裏がCentral Park Westと言う通りになる。


その通りの向こう側はセントラル・パークになる。
前はリンカーン・センター、
後ろはセントラル・パーク。
(ここはええとこやで)

カーネギーホールに並ぶパフォーミング・アートの場所、
リンカーン・センター。

こんな良い所でどうしてこんなに安い値段なんだろうと思ったが
ともかくマネージャーを呼び出してみた。


その人達は二階の部屋に住んでいた。
そしてたまたまそのビルのオーナーと言う人が来ていた。
その人はトルコ人で
こちらに移民してきて色々苦労したんだろう。


しかしこの人もまた
アメリカン・ドリームを実現した人なのかも知れない。
イーストサイドにももう一つ
アパートメント・ビルを持ってると言う。


取り敢えず、まずはここの部屋を見せてもらった。
簡素な部屋だが清潔そうでいい。
ただ一つある窓はビルとビルの間を向いてるが、
まぁ陽は入る。
それにバスルームがすごく広かった。
そこで寝られる位だ。
これはいい。


しかもエレベーターがついている。
そしたら 
「どうだい、イーストサイドの方も見てみるかい」
と言われたので 
「お願いします」
と言ったら彼の車で連れて行ってくれた。


そこはミッドタウンの2nd Aveに近い所だった。
一般的にミッドタウンは
ウエストサイドよりイーストサイドの方が高級とされているが、
私には少し落ち着き過ぎて居心地が悪かった。


私にはやはりブロードウエーの方が良かった。
少し雑多な方が私には合ってるのかもしれない。
(おまえは雑多な人種やからな)
(ちゃうわ)


それでブロードウエーの方にしたいと言ったら、
「OK」と言う事であさり決まった。
自分でアパートを借りるのは始めてだったので
電気とかガスとかどうすればいいのかわからなかった。
そしたら、そのオーナーが全てやってくれた。
本当にいい人だった。


後々彼の昔話を散々聞かされる事になるのだが。
(このオッチャンの話も長かったで)


それで今度は部屋だが何もない。
こればっかりはどうしようもない。
また一から家具を揃えなければならないなと思っていたら、
オーナーが前に住んでいた人達で
家具を色々残していったのがあるので
「使えるものは貸してあげるよ」
と言ってくれた。これは助かる。
(ほんま地獄に仏さんですわ)


それで倉庫に行ってみると結構あった。
まずはハイダーベッド、
要するに折りたたみ式のソファーの事だ。
広げればベッドになる。
これなら一つで両方、ソファーにもベッドにも使える。


それからキャビネットと
中間位の高さのタンスに丸いテーブルと
椅子2脚も借り受けた。
もうこれで殆ど揃ったも同然だ。
後はシーツとかタイル類の日常品だけだ。
それで契約を交わした。


本当に良い人に巡り合えて良かったと思う。
(おおきに、オッチャン)


後はもう一つだけ。
それはカーペットだった。
これだけは新しい物に取り換えたかった。
でもどうやってカーペットを敷けばいいのか。


大工の三代目に相談したら、
「そんなもんくらい俺がやってやるよ」
とあっさり引き受けてくれた。
(やっぱええ友達やで)


そして当時14丁目のイーストサイド、
ユニオン・スクエアーの向かいに
Mays(メイズ)と言う安物専門のデパートがあった。
今はもうないがそこで殆どのものを揃えた。


そして奮発してカセットデッキも買ったので、
早速大好きなカーペンターズのカセットを買い込んだ。
(カーペンターズが好きなんで)


そうそうこの裏のCentral Park Westを
8ブロック上がって行くと
72丁目とこのCentral Park Westとの角の所に
ジョン・レノンが住んでいた有名な
ダコタと言うco-opのアパートがある。
勿論当時彼はまだ住んでいた。
(ジョン・レノンとヨーコや)

これで本当に本当の自分だけの城が出来た事になる。
誰に気兼ねしなくてもすむ。ものすごく嬉しかった。


そうそうサブレントの夫婦が帰って来た時、
きれいに部屋を使ってくれていると言って喜ばれた。
これが縁でこの人達とは後々も付き合う事になる。
(ええ人達やった)


これが5回目の引越しと言う事になった。
そしてやっと独立と言う訳だ。


場所はダウンタウンから順次上に上がって来ている。
この時はこれで落ち着いたと思っていた。


続く

「引越しその09」-(ガールフレンドとヘッドハンティング)

私の話にホモの話しは良く出てきたが
私の色恋の話は何も出て来てない。
正直な所そんな余裕などなかったと言うのが実情だ。


それこそ自分のアパート、自分の部屋すらない。
あったとしても借り物ではどうにもならない。
(何がどうにもならんのや)
(うるさい)


ただ今回このリンカーン・センターの前に引っ越してきて
始めて自分のアパート、自分の部屋が持てた訳だから
そう言う事もこれからなら何とかなるかも知れない。
とは言え相手がいなくては話にならないのだが。
(そらそや、あんたでは無理やで)
(ちゃうわ、ちゃんとホモのオッチャンらにはもてとったわ)


クラスには正直そう言う相手はいなかった。
そう言えば同じクラスに一人だけ日本人の女の子がいた。
その子は確かクィーンズの方に住んでいたように思う。
かなり金持ちの家の娘だったようで、
結構高そうな車を持っていた。


事故ってちょっと破損したとか言っていた。
しかも彼氏と同棲中だとか。
そんな事日本の親は知ってるのか知らないのか。


この子は1年もしないうちに
ドロップアウトして何処かに行ってしまった。
彼氏と何処かに行ったのか日本に帰ったのか。
消息はわからない。


海外に出てしまえは羽をのばす子も多い。
しかも現地の事など日本ではわからないので
やりたい放題と言う子もいる。


サンフランシスコでもいた。
まぁ、みんながみんなとは言わないが。
それに引き換え
学生でバイトをする子はまだ切羽詰ったものがあるので
女の子でも地道な生活をしてる子が多かった。


当時の話だがピアノバーと言うのが
日本人達の間で流行りだしていた。
今で言うカラオケバーの様なものだ。


そこでは女の子が客の横について
日本のバーやキャバレーの様な
接待をしている所もあった。


そう言う所で働いている女の子達の事は
よくわからなかったが
彼女達もまた頑張ってるんだろう。
ただしそれで
学業をドロップアウトしてしまう子は別だが。


時間的に夜明けの3時4時頃までやっていたので
それで授業に出られるのかと言う問題もある。
ただし私は日本で深夜のバイトを遣り通したが。


その頃私はやっと100%のウエイターになって
寿司カウンターと天ぷらカウンターを任されていた。
本当はここは
先輩のウエイターが仕切っていたんだが
急に彼が辞めた。彼は学生ではない。


ちゃんとグリーンカード(永住権)を持っていたし、
この日本レストラン業界では
ちょっと知られたウエイターだった。
なんでも元役者だとか。
ただし彼はゲイである事でも有名だった。


それに仕事は良く出来たので
噂では何所かに引き抜かれたと言う話だった。
そうこうしてるとやっと私にも後輩が出来た。
何でも彼女もまた私みたいに
North Carolina の田舎にいたとか。


そんな所で何をやっていたんだと聞いたら、
住み込みのベビーシッターをやっていたとか。
そんな事でアメリカに来れるのか?
その辺りの事情は良くわからなかったが、
それなりに色々あるんだろう。


そしてNYには
ファッション関係の仕事をやりたくて来たと言っていた。
ただしファッション・デザイナーではなく
パタンナーになるんだとか。


私と同じような状況なので何となく好感が持てた。
年は多分私より1つか2つ上だろう。
そして良く働く子だった。骨惜しみをしない。
これもまた好感が持てる。


初めは何処かの安ホテルに泊まっていたが、
店の直ぐ近くで良いアパートが見つかったと言って
私に部屋を見せてくれた。


そこは私の様にスタジオ・アパートだったが
私の部屋よりは狭くて縦に長い部屋だった。
何だかうなぎの寝床の様な。


そこにミシンを置いて
色々なものを縫って作品を作りたいと言っていた。
それにまた裁縫のバイトにもなるだろう。
彼女はグリーンカードを持っていたが
どうして手に入れたのかは分からない。


それで店が終わってからよく二人で近くのバーや
レストランへワインを飲みに行った。


ミッドタウンの2nd Aveには
そう言う良い店が一杯あった。
それに遅くまでやっている。

彼女がやって来る少し前にマネージャーが辞めて
仕入れをやっていた人物が
マネージャーに格上げになって店に来た。


年は私より少し上だったが彼とも親しくなった。
そして店が終わってから二人で時々飲みに行った。
禁酒はしていたが、
この頃は付き合いでグラス一杯位は飲んでいた。


ところが彼女が来てからは
酒の方はあまり彼と付き合わなくなったので、
此の頃何所に行ってるんだよと
ブーブー言っていた。


こっちも男と飲んでるより
女の子と飲んでる方が楽しいに決まってる。
「色々と忙しいだよ」と言ってしらんぷりしていた。


飲むと言ってもいつもグラス1杯だけにしていた。
そこはまだ禁酒を守りたいと言う気持ちがあった。
飲んでしまえば禁酒ではないのだが気持ちの問題だ。
(もう一つリンゴはどうや。
酔うたら何とかなるかも知れんで)
(いらん、言うてるやろ)


それで彼女とは結構親しくなってきたんだが、
その頃この店がもう一軒新しい店を出した。
そこに彼女はチーフとして引き抜かれてしまった。


何でもそこは若い子達で仕切る炉辺焼きの店にするんだとか。
そこのまとめ役として彼女が本店から抜擢された訳だ。
こっちはババーばっかりだった。(ごめんなさい)


お陰でこっちは夜のデートが出来なくなってしまった。
もう少しアタックをかけておけば良かったか。
(ほんまやで、アホやな)


そんな時だったか、
例の辞めた先輩ウエイターから連絡があった。
「一度会わないか」と。
それで会って見ると、
「どうだろう、こっちの店に来てくれないか」
と言う話だった。


場所は幸い私のアパートの近くだった。
それなら歩いてでも行ける。
ともかく店は滅茶苦茶忙しいらしい。


夜だけでも何回転もするので
並のウエイターではどうにもならないとか。
そう言う事をこなせる人間が欲しいと言う事で
私に白羽の矢を立てたとか。


「ヒロちゃん、一度オーナーにあってみてよ」
と言われて会いに行った。
気さくな人だったが
仕事になると厳しそうな気もした。


そしてそこには顔見知りがもう一人いた。
私と入れ替わりで辞めたウエイターだった。
それともう一人、彼がここで一番の先輩になる。
この3人だった。


何でも一人辞めたので手が足りないとか。
そしてその大先輩の彼は
バーテンダーも出来るんだとか。
だからここではウエイターが何でもする。
オーナーは料理を作るだけだ。


その大先輩は後に自分の店を出した。
私も日本で少しバーテンダーをやらされたので
簡単なカクテルなら作れる。
必要ならバーカウンターに入って
バックアップ出来ない事もない。


それで一度営業時間に食べに行ってみたが、
本当に目の回る様な忙しさだった。
なるほどこれでは
並みのウエイターでは勤まらない訳だ。


日本のホテルのコーヒー・ショップの
深夜担当でバイトをしていた頃を思い出した。
あの時もこう言うのを捌いていたなと。


それで引き受ける事にした。
彼女とは良い感じまで進んでいたのだが
忙しさの余り益々彼女とは会う機会をなくしてしまった。
やはり私にはそっちの方面には縁がないようだ。
(言うたやろう、あんたには縁がないって)
(ほっとけ)


しかしここで私の人生は新たな展開を見せた。


続く

「引越しその10」-(閑話・ある遭遇の話)

女性との関係はあまり上手く行かなかったが、
私の働いていたレストランで
一人の男性に好かれて困った事があった。


そっちの系列はアパート探しの時で十分だったのだが、
私がウエイターになって天ぷらカウンターと
寿司カウンターを任されるようになってから
客として来るようになったアメリカ人が
何故か私に興味を示して付きまとってきた。


注文を取りに行くといつも体に触ってくる。
客だからそう無下にも出来ないし困ったものだと思っていた。
するとある日、閉店間際までいて
これから一緒に飲みに行かないかと誘ってきた。


流石にここまでストレートに来られると
断るしかないだろう。
この時はきっぱりとお断りした。


その後しばらく来なかったが、
もしかしたらまた来ていたのかもしれないが
その後私はもう店を辞めていたので
助かったと言えるかも知れない。


同じ好かれるのならう
やはり女性にしてもらいたいものだと思った。


実はサンフランシスコでも一度あった。
これはアメリカに来て初めての遭遇だった。


まだ英語も良くわからない頃
私はSFのダウンタウンのチャイナタウンの近くの
ボーディング・ハウスに泊っていて
ある日曜日に近くにあったユニオン・スクエアで
日本の小説を読んでいた。


するとちょっと小柄な(それでも私よりは大きいが)
小奇麗なアメリカ人が話しかけてきて
「何を読んでるんだ」と言うから
「日本の小説です」と答えたら
「君は日本人なのか、まだ来て間がないのなか?」
と言うから「そうです」と答えたら
「それならこの辺りを案内してあげようか」言った。


私はまた親切なアメリカ人がいるものだと思った。
何しろ初めての海外旅行で初めてのアメリカだ。
私は何もしらなかった。


それで近辺のホテルや景色の良い所を案内してくれた。
しばらく一緒にいてだいぶ歩いたので
「僕のアパートが近くにあるから休憩しないか」
と言うので、何の疑いもなくついていった。


この時も私は本当に親切な人だなと思っていた。
彼のアパートはユニオン・スクエアーから歩いて行ける所だった。
小奇麗で縦長で、仕切ってベッドが二つあった。
一つはルームメイトのだと言っていた。


飲み物を用意するからその辺の雑誌でも見ていてくれ、
それと私の家族の写真もあるからと言うので
それを見ていた。
感じの良い家族写真だった。


それから雑誌を広げて見たら何か変!
写真は全部男性でしかも裸だ。
「何じゃこれは???」
「これって一応はポルノだろう。でも女性じゃない」


ここまでくれば流石の私も何となくわかりかけて来た。
これはやばいなと。


ビールのつまみなどを持ってきてくれたのだが
何だかんだと注文をつけて彼を引き離していた。


最悪の場合はぶん殴ってでもここを脱出するかと考えていた。
言い寄って来る彼をいなし乍ら気が付けば2時間も経っていた。


最後にはこれで帰らせてもらうと言ったのだが
彼は最後に
「月曜ならルームメイトがいないからいつでも来てくれ」
と言っていた。


しかも一回につき20ドル払ってもいいと言う。
当時の20ドルと言えば私には大金だ。
「えぇ、20ドルも。考えてもいいか」


まぁ、冗談だが。
こんな感じで2時間の軟禁から逃げ出す事が出来た。(笑)

続く

「引越しその11」-(新たな出会い)

さて次回でいよいよ最後の引越しとなるのだが、
その背景がわからないと理解し辛いと思うので
少しその序章を説明をしておこうと思う。


このリンカーン・センター前のアパートは実に快適だった。
環境も良いし安全性も高かった。しかも便利だ。
目の前のブロードウエイを少し下れば
コロンバス・サークルと言う有名なランドマークがある。
グロッサリーストアも歩いて行ける距離にあった。
銀行も目の前だ。


アパート自体は7階建位だったと思う。
エレベーターは一基しかなかったが
それで乗れないかったと言う事は一度もなかった。


表のドアはいつもロックされており、
表のインターホンで訪問先を呼んでドアを開けてもらう。
ドアーマンこそいないが安全な所だった。


しかも新しいバイト先までは歩いて行ける。
特に後ろが良い。
それこそ目の前がセントラルパークだ。
土日だと朝から歩いて公園でのんびり出来る。


今までこんな環境の良い所で住めるとは思ってもみなかった。
そりゃそうだろう。
ベッド大の部屋で共同バスに共同トイレや
倉庫の物置で住んでた身から見ればまさに天国だ。


確かに部屋はスタジオアパート
と言う一部屋だが日本の一間とは広さが違う。
恐らく12畳間には匹敵するだろう。


しかもトイレがこれまた広い。
前にも言ったがそれこそそこでも十分以上に
寝られる位の広さがあった。


ただイーストサイドからのバイトの帰りは
地下鉄が不便だったので時にはタクシーで帰っていた。
それだけ金銭的にも余裕が出来た事になる。


しかも今のバイト先なら歩いて行けるのでもっと助かる。
ここは正に自分の城だった。
だからここは失いたくないと思った。


ただこの頃学校では最後の学年になって
一人の日本人の男性がフロリダの大学から
私のクラスに転校してきた。


あれ以上グラフィック・デザインをやっても
得るものがないと思ったので
2年目から私はインテリア・デザインに移った。


この時のクラスには日本人の姉妹ともう一人の女の子、
それと我々男二人の計5人の日本人がいた。


前回に話に出て来たクィーンズの女の子は
ドロップアウトして日本に帰ってしまったらしい。
本気でデザインを学ぶ気などなかったのだろう。


ただ我々男二人に対しその女の子達は
3人共みんな良家の子女と言う感じだった。


姉妹は大手株式会社の部長の娘達、
もう一人も何処かの会社の社長の娘だった。
当時はまだ誰でも簡単に留学出来る時代ではなかったので
それこそ良家の子女が来ていた。
例外は我々二人位だろう。


そう言う事で私は彼と親しくなった。
また彼は日本で空手をやり
陳家太極拳も少しかじったと言っていた。
だから二人してチャイナタウンの
カンフー映画をよく見に行った。


そしてこの彼との出会いが今後の私の人生を
大きく変えて行く事になった。


彼は何でも日本にいた時に
テキスタイル・デザインをやっていたと言った。
「テキスタイル・デザインって何だ」


正直私はそのテキスタイル・デザインを知らなかった。
彼から説明を受けて服地のデザインだとわかった。


しかも紙と筆と絵具さえあれば
何処でも簡単に仕事が始められると言った。
それは面白いかも知れない。


とい言う事で私は彼から
テキスタイル・デザインのイロハを教わる事になった。
描く規則の違いはあるが絵を描くと言う技術に関しては
グラフィックもテキスタイルも差ほど違いはないだろう。
やって出来ない事はない。


そして私はこのテキスタイル・デザインにのめり込んで行った。
そうなると学校の授業などそっちのけで
我々は実際のデザイン・スタジオで働き始めた。


学校には実地研修と言う事で
授業料だけ払って出席にしておいてもらった。
これで通ったんだからいい加減な学校だったのかも知れない。
それとも我々が優秀だったのか?


ともかくこの頃にはレストランのバイトも止めて
デザイン一本で食っていた。
こっちは私が目指した本当のデザインの仕事だ。
当然こちらを選ぶだろう。しかも将来のキャリアにつながる。

ここで一つ当時の金銭的な話をしておこうと思う。
私が渡米した当時はまだ固定相場制で1ドル360円だった。
そして1974年に第一次オイルショックがおこり、
固定相場制が崩れて、
NY当時は1ドル280円位だったんではないだろうか。


私がレストランのバイトで稼いでいた金は
100%のウエイターになってからは月約600ドル位。
1カ月の部屋代が250ドルだから余裕で生活が出来た。


ちなみに私が日本でデザイン学校に行く前は
市役所で働く地方公務員だった。
その時の初任給は多分2万8000円位だったろう。


仮に1ドル280円として私はその時
ウエイターで16万8000円の収入を得ていた事になる。
これは当時の日本で言えば
上場の株式会社の課長か部長(?)クラスか。


そしてデザイン・スタジオで働く事になった時の
私の最初の週給は250ドルだった。月に1000ドルになる。
つまり日本円で言えば月28万円だ。


この当時の日本のテキスタイル・デザイナーの
スタジオで働く初任給は3~4万円程だったろう。
日本と比べてどれ程凄い金をもらっていたかと言う事になる。
(そりゃアメリカ人はみな金持ちな訳だ)


そんな時、ある事件が起こった。
ある日突然彼が私のアパートに来て
ともかくここから逃げろと言う。
(なんじゃそれは。意味がわからん)


彼のデザインの仕事関係の人に私の事で誤解が生じたとかで
ともかく今は姿を隠した方がいいと言う。
(なんでや。何も悪い事はしてないのに)


色々説明は受けたが正直良くわからなかった。
しかし彼は言ってみれば私の師匠のようなものだ。
一応は彼の顔を立てておく事にした。


それでどうするかと言う事になり、
彼のアパートと私のアパートを取り換えようと言う事になった。
今から考えても何故あの時そう言う事になったのか
正直な所未だによくわからない。


何となく彼に上手く利用された気もしないではないが
話の成り行き上こちらも了承してしまったので仕方がない。


つまりこれが最後に引越しをする理由になった。


続く

「引越しその12」-(最後の引越し)

これがいよいよ最後の引っ越しとなった。
場所はハドソン川に面した76丁目のウエストエンドだ。

これは前にも言ったようにこれは私が望んで引っ越したのではなかった。
やむを得ない事情により引っ越すことになった。
しかし場所としてはそれほど悪くはない。


少し西に出て Riverside Drive と言う通りを越せば
リバーサイドパークと言う公園がある。
そこからはハドソン川を挟んで
ニュージャジーが見える。
環境としては悪くはないだろう。


ただしアパートが古かった。
私の部屋の上の部屋で
歩き回る人の足音が聞こえた。
これは正直問題だ。
そしてここは私の例のクラスメイトの住んでいた部屋だ。


ともかくあの音には閉口したので
大家に話して何とかならないかと言ったら
それなら地下にもう一部屋空いていると言った。


それでその部屋を見せてもらうことにした。
なるほどここなら足音も響いてはこない。
しかしここは言ってみれば地下室だ。


確かに外に向かって窓はある。
よくマンハッタンを歩いていると
通りの端の建物の前に柵があって
空間があり窓が見える所がある。
そう言うのが地下の部屋の窓だ。


だから光が全く入いらないと言う事もないが、
気持ちの上では少し閉鎖的にならざるを得ない。
しかしまぁ、音の事を考えたらまだましだろう。
それでこのダンジョンに移ることに決めた。


そういう意味ではここは
6回目の引っ越しと言う事になる。


マンハッタン側のハドソン川に面した
Henry Hudson Parkway と言うハイウエーを
179丁目まで上がって行くと
そこにジョージ・ワシントン・ブリッジと言うのがあって
ニュージャージ側に渡れる。
下がその橋の写真だ。

ともかくこれで私の
マンハッタンでの引っ越しは最終となる。


マンハッタンの下から随分と
上まで上がって来た。


ソーホー
チャイナタウン
イタリアンタウン
ウエストビレッジ
ジャズハウス
ヘルスキッチン
ブロードウエイ・ミュジカル
リンカン・センター
セントラル・パーク
ウエストエンド
リバーサイドパーク
ハドソン川


こうして見てみると
ウエストサイドの大まかな所は
結構網羅して来たように思う。


イーストサイドは外れるが
そこはレストランで働いた。
計七か所6回の引っ越しだ。
しかもこれを2年間でやった。
これを引っ越し魔と言わずして何と言えばいいのか。


後半はほとんど授業には出ていなかったがちゃんと卒業証書はもらった。
いい加減と言うか私達が優秀だったのか。(笑)


ただし一つ彼と私とである約束をした。
それは二人でこのマンハッタンで
デザイン会社を立ち上げようと。


その為に私は日本に帰り
もっとデザインの技術を身に着けて帰ってくる。
その間彼は現地に残りその下準備をする。
そしてその準備期間を3年間とした。


そして次が本当に本当の
最後の最終の引越しになった。
それは日本への引越しだ。


3年後私は再びこの地を踏んで彼との約束を遂行した。
会社を立ち上げようと準備をしていた時に、
彼が働いていた会社が倒産したので、
彼はハワイに行く決意をしたようだ。

それでデザイン会社は私一人で立ち上げた。
そしてその後このカリフォルニアに移るまでの約20年間
私自身のデザイン・スタジオを経営していた。
(お疲れさまでした)
(ほんまやで、アホな長話を)
(うるさい言うてるやろ、おまえは)

人生は一寸先が闇だ。何があるかわからない。
だからこそ面白いと言える。

引越し魔の最終話

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