「ロシアへの旅」

ロシアへの旅①-①

私もこれまで色々な国と場所に行ってきたが、やはりその中で一番の驚きと意外性があったのはロシアだろう。勿論時代と共に旅行のノウハウや受け入れ側だって進歩されては来るだろう。しかしそうでない初期段階における国や地域の対応と言うものには驚かされる事が多い。これもその一つだろう。(おまえ、ロシアはやっぱり止めた方がええで)

それにロシアと言えば今でもまだ開かれた国と言う感じはしない。ただソビエト連邦が崩壊して以降は少しましになっただろうが、それでもまだ近くて遠い国に属する事は確かだろう。時は1994年3月、場所はウラジオストック。シベリア大陸横断鉄道始まりの地だ。そしてこの年、ウラジオストックの飛行場が始めて一般観光客用に解放された年だと思う。もしかするとその前年だったかも知れないが、ともかくそう言う時期だった。ではそれまでは何だったのか。勿論軍の基地だ。(そやから言うたやろう、行かん方がええって)

そもそもソビエト連邦が崩壊したのは1991年12月だ。それから2年と4ヶ月ほどしか立ってない。それまでは軍の飛行場であり外国人の立ち入りは許されてはいなかった。地元の人間でさえ制限のあるところだったと言う。

だからそれまでウラジオストックには船で行くと言うのが普通だった。そう言えば私の高校のクラスメートが1970年前後に船でウラジオストックに渡った事がある。それから大陸横断鉄道に乗ってヨーロッパまで行くのだと言っていた。その後しばらく消息不明になっていたが数年してふらりと帰ってきた。私の留学話はある意味彼から始まったと言ってもいいかも知れないのだがそれはまたの機会としよう。

その時は私ともう一人、私のアシスタントを連れて、ともかく我々は日本に先に飛んで日本の新潟空港からウラジオストックに渡った。ウラジオストックは日本海を挟んで対岸、そう言う意味では目と鼻の先だ。時間にして2時間前後だろうか。今は成田や関西空港から直行便が出ているが、当時は新潟からロシアのエアロフロートがウラジオストック-新潟間を就航していた。

とにもかくにもロシアなど行った事のない国であるばかりかどう言う国なのかもわからない。だからまず最初にやった事は日本の本屋に行ってロシアの観光ガイドを買って読む事しかなかった。何かそこには色々と厄介な事が書いてあった。特に入国審査やパスポート等に関してだった。

元々この旅は私が計画して行ったものではない。向こうから招待されて仕方なく行った様な旅だ。だからこちらも急遽下準備をした様なものだったので分からない事だらけだった。取り敢えずはNYのロシア大使館に行ってビザだけは貰ってきた。これには向こうからの招待状と受け入れ承諾状の様なものが届いていたのでその点は問題なかった。

これは公用でもないしまたビジネストリップでもない。あくまで個人的な私用の旅だ。ただし現地でとある講習会を開いて欲しいと言う事で招待されていた。

それで今回の旅行に関して色々調べていると全ての旅行スケジュールは渡航前に決定して支払いも済ませるとあった。それに確かビザは宿泊地(ホテル等)の予約も入って支払済みでないとロシアのビザはおりないのではなかっただろうか。つまり現地でのスケジュール変更が許されないと言う事だ。まだまだ自由ではないと言う事だだろう。今は知らないが当時はそうだった。ただ我々の場合はそんなスケジュールはない。一応招待なのでスケジュールは向こう任せなのでわからない。ともかくこちらは行くだけだった。

当時私が乗ったアエロフロート

さていよいよ新潟でエアローフロートに乗り込んだのだがあれだけはもう2度と乗りたくないと思った飛行機の一つだろう。ともかく狭い。まぁ狭いだけならまだ我慢も出来よう。しかし、しかしである。頭上のコンパーメントが小さくて手荷物が入らないのだ。しかも下に置くスペースもない。ならどうすればいいんだと言う事でスチューワーデス、いや今はキャビンアテンダントと言うのか。それに聞いたら膝の上にでも置いてくださいとの事だった。 「おいおい、いいのかそんなので。航空規制に反するんじゃないのか?」 しかしそこしか置けないのもまた事実だった。だから荷物を抱えたままの飛行となった。

その上もっと驚かされたのは背もたれが前に倒れると言う事だった。 「折り畳みの式の椅子じゃないんだからこれってありかよ。こんなので緊急時にどうして安全を確保するんだ」 ともかく滅茶苦茶な飛行機だった。それでも一応は2時間ほどの飛行時間だ。何事もない事を祈るしかない。勿論今は改良されているが当時はこう言う物だった。

その飛行機には日本人の観光客もいて旅行代理店の添乗員が到着間直になって税関での手続き等の説明をやっていた。これは助かると私達もそれに耳をそばだてていた。そしていよいよ着陸だ。やっとほっとしたと言うのが本当の気持ちだろう。

ウラジオストックの場所はご存知だろうとは思うが一応地図を掲載させていただく。

では続きはまた次回に。

ロシアへの旅①-②

3月と言えばまだ寒い。ましてここウラジオストックでは尚更だ。なのに、なのにである。どうして建物の外に並ばなければならないのか。

これは私達がエアロフロートに乗って新潟からウラジオストックの飛行場に着いてからの事だ。ともかく結構待たされた。だからその間は言わば足踏み状態だった。そうでもしないと寒くて堪らない。

そして漸く建物の中に入ってその訳がわかった。何と狭い事か。これが国際線の入国ビルなのか。それこそ30人も入れば満杯と言う感じだった。

そこでまずパスポートの審査があって次の部屋に進む。そこもまた狭い。税関審査だが担当は4人位しかいなかった。ともかく4箇所で一列に並んで待っているのだが、その時に同じ飛行機に乗り合わせていた添乗員がみんなに説明していた。

「持ってるお金はみんな書き出してください。現金もトラベラーズチェックも小銭も。何も漏れる事のない様に。そしてここで書いた書類は絶対失くさないようにしてください。銀行で両替をした時はこの用紙に書き込んでもらう事になってますので。そしてこれを出国の時に税関に差し出します」 とまぁ、こんな説明だったと思う。要するに金の出入れをはっきりさせなければならないと言う事だろう。

一応この国では貨幣(ルーブル)は国外持ち出しは禁止になっているらしいので来る前に日本での両替は出来ないらしい。(国外持ち出し禁止とは片腹痛いわ・・・この話はいずれまた) 

その時に私の前にいた日本人が何かトラブっていた。しきりに説明しようとするのだが英語が出来ないらしい。勿論ロシア語もだろう。

それで仕方なく私が「手伝いましょうか」 と言って税関の係員に 「何の問題があるのですか」 と英語で尋ねた。すると 「彼は物凄い現金を持っている。これは一体何の金だ」 と言う事だったらしい。 およそ300万円近く持っていた様だ。

物価の違うロシアにすればそれはもう3000万円以上の、いやもしかする5000万円、6000万円位の価値かもしれない。それでその事情を聞いてみるとどうやら彼は大学の教授でこちらで研修会を受ける為に来たとか。それと通訳に支払う為の費用だとか。それと同僚や付き添いの者もいる。それらに必要な経費を全て自分がまとめて持っているのだと言った。

それを税関に説明したら、それならここにその様に書けと言うので私がやってあげた。それでひとまずは事なきを得たようだ。それから私達の番になったが何も問題はなかった。

ただその隣に普通なら何所の飛行場でも荷物を受け取るターンテーブルがあるが、それもここでは凄く小さく役に立つ様なものではなかった。それどころか係員と言うか軍人が手で荷物を運びこんでいた。

それを受け取って今度は荷物審査と言う事になるのだがこれも問題なくすんだ。ただしかしこれでは国際空港とは言い難いだろう。

まぁこれもその内良くはなるのだろうが普通はそう言う事は前持って準備しておいて空港をオープンするものだろと思うのだが。まぁ国それぞれと言う所か、それとも商業性と言うもののない国情なのか。

当時のウラジオストックのアエポート

ウラジオストックのエアポートの現在(外見はそんなに変わってない様にい思える。多分中は随分変わっているのだろうが)

それで外に出た所で私の友人が待っていてくれたので本当に安堵した。こんな調子で放り出されたらどうしようかと思っていたので。

まぁ、迎えに来てくれてるとは思っていたので、ここから都心までの交通の便もどうして行くのかも何も調べてはいなかった。しかも私達には添乗員もついてないので、もし来てくれてなかったら大変だった。しかしまぁ、何とかなったとは思うが。

迎えは3人だった。一人は私を招待した本人であり、一人はドライバー、もう一人は通訳だ。3人ともロシア人だ。通訳は英語が堪能なので私の英語をロシア語に通訳してくれた。

それで迎えの車で町に向かった。迎えの車と言ってもジープの様なものだったが日本製だ。この町では日本製の車が多い、と言うより殆どが日本車だろう。

それも何々店とかの宣伝の入った車がそのまま走っていた。聞くとその方が日本車だと言う事で信用があるんだとか。まぁ、国情を考えれば新車など一般庶民の手の届くものではないと言う事なんだろう。

そこで聞いた話では、当時の大学の先生の給料が月100ドルほどだと言っていた。94・5年と言えば92年にドルが暴落した後だから日本円にしても大学の先生の給料は月1万円ちょっとと言う所だろう。そんな経済状態で新車など夢のまた夢と言う事になる。勿論今では違うかも知れないが。

ただ驚いたのは信号機が少ないと言う事だった。都心の当然あるだろうと思えるような所にも信号機がなかった。ある所よりもないところの方が多いくらいだ。

これでよく事故が起こらないもんだなと思ったのだが、信号があっても最近Youtubeなどで事故の模様を映し出してるのだからなければ当然事故多発だろう。

ただもしかするとまだ車が少なかったので持っていたのかもしれないが、ともかく危ない事に変わりはない。しかも舗装されてない道路も結構あった。

ウラジオストックの町並み

さてではいよいよホテルでの話しにしよう。一応観光客達はウラジオストックにある国際ホテルに泊まるのが常だ。現地に知人がいれば別かもしれないが、その当時ではまだビザやパスポートの件で問題が多かったのでそう言う所なら一応安心だろう。

ただし私達の場合は違った。友人が現地のホテルを取ってくれていた。あれは10階建て前後の建て物だと思うのだがまずエレベーターがない。本当にないのだ。

そんなホテルがあるのかと思われるかもしれないが現地のホテルとはそんな所も多い。それで高級なホテルだと言う。幸い私達の部屋は5階だったのでまだ助かった。そしてその3人が私達の荷物を運んでくれた。

部屋自体は悪くなかった。入り口中央に小さなスペースがありその奥に広いリビングがあった。そして左右に一部屋ずつの2ベットルームになっていた。

そしてバスとキッチンもついてた。元々ここは高級アパートだったのをホテルに改造したのだと言う。だから住んで生活も出来る様になっている。

Living Room 1

Living Room 2

一応形式としてはホテルと言うよりはまだアパートだろう。

それだけではなく5階についた時に、上がり段の所にデスクがあり一人の女性がそこに座っていた。あれは何だと聞いたら、まぁメイドのようなものだと言う。

必要な用事を言いつけるとやってくれるらしい。つまり掃除とか洗濯だろう。昔からこう言う場所ではそう言う風習になっているんだとか。

ただ水は沸かさないと飲めなかった。幸いやかんの類もあったのでそれは何とかなった。それに冷蔵庫もあるので飲料水を買っておけばいい。

ただ風呂の水は赤っぽかった。あれは何だ錆の色か?ともかく身体を洗うくらいなら問題はないだろうが・・・・。それと石鹸はいただけなかった。あんな硬い石鹸で擦ったら皮が剥がれるんではないかと思えるくらいだ。

それとトイレは12時以降は水が出ないので使えないと言われた。用はそれまでに済ませておいて欲しいと。

勿論トイレット・ペーパーもゴワゴワしていた。何ともはや凄い所だ。これで高級だと言うのだから普通の生活はどうなんだろうか?

それくらいで驚いてはいけない。こちらに着いた事をアメリカにいるワイフに知らせようと思って電話をかけようとしたら部屋には電話がなかった。

下のフロントに行って頼むしかないと言う。そこでアメリカに電話をかけたいと言ったら、勿論これも通訳が通訳してくれた。ここのフロントは英語は話せないので。

すると一応電話局に申し込みをしてつながったら教えると言う。で、どのくらい待てばいいのかと聞いたら、運が良ければ10分か20分。悪ければ1時間くらいかなとか。

 「おいおい、それって何だ」 要するに国際線の配線が少ないらしくて空きを待つしかないらしい。それがいつ空くのかわからないと言うのだ。

昔日本でも田舎で電話回線がつながったら放送で呼び出していたみたいなのがあったが、それと同じか。月にロケットを飛ばせる科学力を持ってる国が何なんだ。

最後に一つ大事な事を言っておこうと思う。当時は何所のホテルでも、外国人が宿泊するとパスポートをホテルのフロントデスクに預ける事になっていた。

しかもチェックアウトするまで返してもらえないのだ。これって凄く危ない事だろう。何かあっても自分を証明するものがなくなってしまう。そう言う事もあって旅行スケジュールは変更出来ない事になる。つまり本当にまだ自由のない国だと言う事だ。

今は、一応チェックインの時にホテルのフロントにパスポートを提出するが1時間ほどで返してくれるようだ。

私の所でも同じだった。フロントがパスポートを出して欲しいと言った。しかしこれは嫌だったので友人に何とかならないかと言った。

すると友人ともう一人のロシア人がフロントンに何か言っていた。そして結果はパスポートはいいと言う事になった。

どんな手品を使ったのかは知らないがともかく提出せずにすんだ。持つべきものは力ある友か。(笑)

では続きはまた次回に。

ロシアへの旅①-③

ホテルの部屋のセッティングも終わり、少し市内観光でもと言う事になり私達は表に出た。ホテルは小高い丘の上にあり、そこから町の中心街に向かって行ったのだが道がぬかるんでいる上に舗装もデコボコ、それに地面がむき出しの所もまだ多くあった。 

前回も言ったが信号がない。こんな危ない所をみんな走っている。慣れとは恐ろしいものだなと思った。

信号はそれこそ本当に目抜き通りの中心部だけにしかなかった。そこから少し離れるともう信号どころか道すらも砂利道になる所も多くそれに3月の雪解け道だ、車はもう泥だらけだった。(今はもっと整備されているだろうが) 

ウラジオストックの町並み(中心街)

舗装状態も悪い、でもここはまだ良い部類だろう

この町の中心地、まずはウラジオストック港にその前の広場。何やら銅像が立って旗を持っている。どう言う銅像かは良くわからなかったが、ここは中央広場との事。

そこからそのまま表に潜水艦がおいてある潜水艦博物館やウラジオストックの中央駅。ここはシベリア鉄道の始発駅でもあるそうだ。何時の日かここからシベリヤ鉄道に乗ってモスクワまで行ってみるのも面白いかもしれないと思った。 

中央広場 (94年当時)

中央広場の現在

潜水艦博物館 

シベリア鉄道始発駅 (95年当時)

 
シベリア鉄道始発駅の現在

ウラジオストックの港には軍艦が一杯あった。このほんの少し前、ソビエト連邦時代ならこんな写真を撮っていたら確実にシベリア送りだろう。今でも無闇に撮ってると逮捕されるかも知れない。それから丘の上にあがり港の風景を眺めて市街地に。 

ウラジオストックの港 

途中走っている時に一軒屋の集落を発見。この町の大部分は高層ビルだった、まぁ、高層と言ってもNYのような高層ではない。平均して10階前後と言う所だろうか。そして殆どの人がそう言うビルに住んでいるとの事。貧乏人も金持ちも。じゃーあの一軒家は? 

普通に考えると一軒家の方が高級そうに思えるのだが、英語の出来るロシア人の説明によると逆だそうで、あそこに住んでいるのは低所得者層だと言う。

何故なら市はそう言う一軒屋の所には下水道の完備をしないとか。大きなビルを中心にするのだそうで、そう言う家々は自分達で井戸を掘り生活しているとか。なるほどそう言う貧富の差もあるのか。 

一軒屋群 

この当時テレビでロシアの食糧危機が叫ばれ、食料品店に並ぶ人々の列をよく映していたので、実は食べ物の事を心配していたのだが幸いここは漁港でもあるので海産物はまだ手に入りやすいようだった。またお店などを見て回った感じでも人が列を作って物を買っている様子もなかったのでこの辺りは大丈夫なんだろう。 

ただ魚屋のような所に入った所、生魚がない。その殆どは燻製品だった。その方が長持ちしする。毎日新鮮なものを食べるのはやはり金持ち達だけと言う事になるのかもしれない。

試しにロシアで有名なキャビアはあるかと店やデパートにも行ってみたのだがキャビアのキャの字もない。イクラですら滅多に見なかった。 

通訳のロシア人に聞いてみるとそう言うものは庶民の口には入らないとの事。そしてその多くは日本へ輸出されると言っていた。

その当時パンストをあげれば女性が喜んで付いて来るとまで言われた頃の話だ。まぁ、それは多少の誇張があるにしても大喜びされる事は事実だろう。 

そう言う経済状態に付け込んで買春に来る日本のスケベー親父どもがいる。これもまた事実だ。

韓国でひんしゅくを買い、今度は普通では一生かかっても白人女性など抱けない日本のクソ親父どもが金に物を言わせて買春ツアーに来る。日本人の恥をここまで持って来るのかと言う感じだ。 

そう言えば入国時にしなかった両替だが、ロシア人の連れに銀行に連れて行ったもらってそこで両替して来た。両替の際には入国時にもらった種類を同時に提出して銀行側にいくら両替したか明細を書いてもらわないといけないようだった。  

「しかしそれにしても何だ。この量は!」 この頃ロシアはソ連崩壊後の超インフレ状態にあったのでものの値段が上がり紙幣価値はなくなり、1ドルでどの位のルーブルになったか。はっきりとしたレートは今思い出せないがともかく100ドルで焚き火が出来るほどの紙幣。そんな感じの換算レートだった。 

ところで私はある食べ物が食べたくなったので何処に行けば食べられるかと聞いたら、今の時期、ちゃんとしたものはあそこだろうと言う事で連れて行ってもらった所がある。

その食べ物とは 「ピロシキ」 。何故か私の頭の中には日本のテレビで見たパルナスのピロシキが妙に印象に残っていたので是非本場のピロシキを食べてみたいと思った。 

建物の前に一人立っている写真がある、その建物がピロシキを食べさせてくれるレストランだ。勿論他にもあるのだろうが、彼らが薦めてくれたのがここだった。

だたしここが何処なのかは全くわからない。味の方は日本のパルナスのピロシキとは若干違ったが、これが本場の味と言うものんだろう。それなりに満足出来た。(日本のパルナスのピロシキはやはり日本人向きの味にしてあるのだと思う) 

ピロシキの店 

そこでかぶっているのはロシア特有の毛皮の帽子だ。これはこちらで買ったのだが、その話はまた次回と言う事にしよう。 

そうそう言い忘れている事があった。ロシアに入った外国人は72時間以内に外国人登録をしないといけないらしい。3日以内で帰るのであればその限りではないらしいが。

それは所轄の警察署やそれに類する関係各所に出向いてしなければならないとか。大きな国際ホテルではホテルの方で代行してくれるようだ。ただしそう言う事は当時の私は何も知らなかった。 

ただロシア人の連れが警察に行こうと言いだした。 「何で警察に?」 と言うと滞在の延長には警察で判子を押してもらわないとと言うのでともかくパスポートを持って近くの警察署まで行った。 

警察署の前で 「ここで待っていてください。判子をもらって来ますからパスポートと入国時の書類をかしてください」 と言うのだが、 「本人が行かなくていいのか?我々の滞在許可だろう」 と言ったのだが、 「大丈夫。大丈夫」 と言ってまた二人して警察署の中に入って行った。 

それほど時間もかからず、全て済みましたとパスポートと入管でもらった書類を返してくれたが本人の確認もしないでOKなのか?

またまた何やらマジックを使ったのか。どんなマジックを使ったのかは知らないが、これは知らない方がいいだろうと決めた。(笑) 

では続きはまた次回に。

ロシアへの旅①-④

前回のパート3では当時の写真を探して貼り付けていたので、時系列を追うだけの少し面白みのないものになってしまった様に思う。さてではまた気を取り直して行くとしよう。

今回の訪問で一つ助かった事は私の友人の知り合いが車とお抱え運転手を提供してくれた事だろう。お陰で足の不便さはなくなった。

この当時タクシーなんてあっただろうか?全くない事はないのかもしれないが私は見なかった。大体道路事情があんな感じでしかも車も日本の中古車が走りまくって、それでも一般庶民には高嶺の花と言う時代だ。タクシーなどやって採算が取れるのかどうか。多分国際ホテル客専用と言う事になるのかもしれない。

それとこの時代はソ連崩壊後2年余り、この時期に上手く立ち回った人達は一躍千金を手に入れた。俗に成金と言われる人達が現れたと言う事だ。今回の車と運転手を提供してくれた人もその一人だろう。詳しい事は知らないが何処かの社長らしい。ただ私の友人とは親しい様だ。

車はニッサンのサファリではないかと思うが当時で新車。日本ではそれほど珍しくもない車だろうがこちらでこう言う車を持てるのはそれなりに裕福でないと出来ない事だろう。しかもお抱え運転手までとくれば一般庶民では手の出ない世界だ。

ロシア人の友人と私と社長

その車で朝夕の出迎えから送り届け、または食事にも全て彼の運転手が来てくれた。食事の方も主にその社長が連れて行ってくれたのでやはり豪華なものだったと思う。

普通の人達がどう言う所でどう言うものを食べてるのかは良くわからなかったが。この頃のロシアは過渡期で貧富の差が大きく分かれ始めた頃だろう。

共産党統制から自由経済に。ビジネス・チャンスや新しいアイデアを掴んだ者が一攫千金の金持ちに。そう言う時代だったと思う。とは言っても全ての社会構造が一変した訳ではないだろう。奥には共産党時代の遺物がまだまだ残っていたと思う。

ある日夕食に行こうとその社長から誘いがあり、私の友人とロシア人の連れ、通訳も入れてとあるビルに。ビル自体は極ありふれたビルだった。

特に内装が施されている訳でもなく、どちらかと言うと古ぼけたビル。もしくは倉庫のようなと言ってもおかしくはないものだった。

そこの最上階へ。その扉の前には屈強そうなガードが一人。その扉にはそれこそ昔のアメリカのシカゴ時代の様な覗き窓が。社長がガードと話をすると中から確認の為か目が覗く。

そして中に入るとそこは隠れ家的レストランだった。俗にハイドアウト(Hideout)と言われるものだろう。何やら色とりどりのライトが怪しげに。と言ってもアムステルダムの飾り窓とは無縁のものだったが。

要は飲んで食べてショーを見てと言う所の様だった。店の前の方にはステージがあり生演奏や歌や踊りやショーなどを楽しみ、後ろの方にあるバーには世界中の有名な飲み物が全て揃ってた。勿論食べ物も。

ここは以前共産党の高級官僚(党員)達が良く来た所だと言う。今は町の金持ち達も来れるようになったとか。ともかくどんな時代、どんな国、どんな社会にもこう言う所はあるようだ。

勿論こう言う所は一般の観光客の来れる所ではないと思うが、さて今ではどうなのか?もし一般の観光客も来れるようになっているのなら覗き窓は必要ないと思うのだが。

隠れ家レストラン(これらは歌を歌ってる所だが他にもマジックやダンスや色々あった)

私達は左半分の方の席だった。

この社長には随分色々な店に連れて行ってもらった。本当に親切なと言うか。でも向こうにして見れば日本やアメリカへのビジネスの何かの架け橋になるかもと言う事で親切にしてくれていたのかもしれない。それならそれでもいいのだが。

またある日の昼食の時に、社長が私に狩は好きかと聞くので、 「狩ね。やった事はないですね」 と言うと、今度時間があったら一緒に行かないかと言うのだが、そんなもの行った所で滅多に生きた動物に当たるどころか遭遇する事もないだろうと言った。それに元々生き物を撃つなんて私の意識にはなかったので。

昔NYにいた頃鹿狩りによく行くと言う人物から早朝の4時5時から木の上や鹿に見つかり難い所に隠れて何時間も待って遭遇しない事も多くあったと聞いた。

でもその社長が言うには、特別な狩場があって広い範囲ではあるが仕切りがしてあって、その中に好みの動物を入れてくれると言う。それを狩るのだとか。 「さすがロシア。すごい国だな」 と思った。これに関しては丁重にご辞退申し上げたが 動物保護団体が聞けは目を吊り上げる話しだろう。

またある夜は社長の家にも招待された。奥さんと娘さんがいて、勿論この社長の家も一軒屋ではない。この社長と言えどもやはりアパートメントビル住まいだった。

ここは高級アパートと言う事だろう。この部屋が買い取り式なのかレントなのかは知らないが部屋には大きな金庫があった。それこそ身の丈ほどもある金庫が。

中も見せてくれまたが現金の山積みだった。それもみな米ドルばかり。 「なんでルーブルでないのか」と聞いたらル-ブルは信用出来ない。いつ貨幣価値がなくなってしまうかも知れないので全て米ドルだと言っていた。

あの頃はドルの値打ちが下がったとは言え、まだ米ドルも信用があったと言う事だろう。そりゃ当時のロシアのルーブルから比べれば月とスッポンみたいなものだろう。

そして奥さんのロシアの家庭料理に舌鼓を打って、彼の家にあるピアノを通訳が弾き歌い、最後に我々の知っている唯一の歌。 「カチューシャ」 を全員で合唱した。(こちらは日本語で)

この続きはまた次回に。

ロシアへの旅①-⑤

先に言っておかなければならないのだが今回は写真はない。何となく撮れる様な雰囲気ではない所に行ったので。さてそれは何処か。

何日目の夜だったか友人が、 「ディスコへ行きましょう」 と言って来た。「ディスコ?何でこんな時に、こんな所で」と最初はそう思ったのだが、まぁせっかくの誘いだし何か特別な事でもあるのかもしれないと思ってOK をした。しかしこんな町にディスコなんてあるのか?と聞いてみたらあると言う。

それで連れられて行ってみるとそこはモロ倉庫みたいな所だった。飾りつけも何もなく、配管は露出し、床もコンクリートのままだった。

こんな所でと思ったのだが中に入って行くと確かにディスコだった。コンクリートの床にドラムセット、そしてギターを奏でる者達。そしてその前では若者達が髪を振り乱して踊っていた。

この風景は世界中何所でも同じだ。そして彼らには場所など関係ないのかもしれない。何所であれ音楽と踊れる所さえあれば。しかし我々はどうすればいい。

ここの若者達に混じって踊れと言うのか。そうするにはちょっと薹が立ち過ぎてはいないか。サパークラブの様な所で踊ると言うのならまだしも。

ただその時ちらっと頭を掠めた事はソビエト連邦時代はどうだったんだろうかと。こんな事が出来たんだろうか。

じゃー踊るのかと友人に聞いたら、そうじゃないと言う。我々はそのまま奥に進んだ。するとそこは突き当たりでそこにもまたガードが立っていた。

友人がそのガードと一言二言話をして我々はそこの扉から中に入った。前回のハイドアウトみたいなものだ。

今回は社長の紹介ではなかったが友人がどうしてこう言う所を知ってるのか?それも疑問だったが余計な詮索はしないでおく事にした。

そして中に入ってみると表のディスコとは一変してこちらは絨毯を敷き詰めたサロンの様な感じだった。ゆったりしたテーブル席に正面中央にはダンスフロアもあり生演奏も入っていた。

さらに中央部には奥の壁から突き出た縦に長いステージもあった。確かにここでなら踊りも出来るだろう。しかしディスコ・ダンスと言うにはちょっと上品過ぎる所だ。恐らく社交ダンスの類をやるフロアだろう。

我々が着いたのは夜の7時前後だったのでまだ中には誰もいなかった。それでまずは腹ごしらえをしようと言う事になり食事を注文したが何を注文していいのやらわからなかったのでみんな友人に任せた。何を食べたのかあまりよく覚えてないが美味い事は確かだった。

そうこうして2時間くらいしてから人が来だした。みんなスーツに女性はドレスと言う出で立ちだった。やはりここは夜の社交場と言った所だろう。しかしそれにしてもディスコの奥とは。ここもまた観光客では来れない所かもしれない。

生演奏に合わせてダンスをしているカップルもあったが勿論それは社交ダンスだった。それでは我々の出る幕はない。そしてしばらくしてバンド達が休憩に入った。

すると今度は中央のステージにライトが当たって奥から女性が一人出てきた。何とそれはストリップショーだった。あくまでバンドの休憩時間だけと言う事らしいが、それにしてもこんな所でストリップもやるのか。日本では考えられない趣向だろう。

そして20分から30分ほどのショーの後またバンドが戻って演奏を開始した。私はちょっとお手洗いに行きたくなったの行って来ると言ったら友人が我々も着いて行くと言う。

別にそこまで着いて来てくれなくても一人で行けるよと言ったんだが何人かがどうしても着いて行くと言う。おかしな奴らだなーみんなトイレがしたいのかと思って一緒に行ったがその理由が良くわかった。

トイレは外だった。しかも地下でそこは表のディスコで踊っていた若者達とも共有になっていた。その上中にはそこでマリファナを吸ってる者もいた。

なるほどそれで一緒に行くと言ったのか。私が襲われでもしたら困ると。無用の心配だとは思ったが、海外では何が起こっても不思議ではないので気持ちは嬉しかった。

それでまたそのサロンに戻ってしばらく酒を飲みながら雑談をしていた。この時ばかりは私も少し飲んだ。別に飲めない訳ではないので。

しかしもうそろそろ12時だ。それそろお開きだろうと思ったら、これからだと言う。何がこれからなんだ。

では向こうに行きましょうと更に奥に私達を連れて行った。するともう一つ扉があってそこを抜けるとカジノになっていた。

スロットマシーンはなかったがルーレットとカードはあった。ここは12時以降明け方までやっているんだとか。

ここが公営のカジノなのかどうかは知らないがともかくやっていた。そしてその時間になると表の若者達は皆追い出されていた。何でもディスコは11時半位までらしい。

それからが大人の時間と言う事になるらしい。ドル札だとそのままでチップに換えてくれる。100ドルも出せばかなり遊べる。

そりゃそうだろう、大学の先生の給料が月100ドルほどだと言うのだから。ともかく私が100ドル払ってみんなで楽しんだ。勿論勝つ事はなかったが。

そして朝の4時頃さすがに疲れてきたのでもう帰る事にした。しかしディスコにカジノか面白い取り合わせだ。

こんな所があろうとは。中々この町も奥が深い。そんな所だったので写真は撮ってない。

では続きはまた次回に。

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